文化財の紹介(建造物)

更新日:2021年04月27日

伊須流岐比古神社拝殿及び本殿(県指定)

現存の伊須流岐比古神社本殿は、承応2年(1653)から翌3年(1654)にかけて、加賀藩の手により、石動山頂の大御前(標高564メートル)に建てられた本社(大宮・客人宮)本殿であり、加賀藩御大工黒田太右衛門が工事を指揮した。桁行3間・梁行2間の身舎に、3間の向拝を付けた入母屋造り、平入り、銅板葺、千鳥破風付き、向拝に軒唐破風を加えている。もと柿葺であったのを、弘化3年(1846)に銅板に葺き替えしており、軒唐破風はこの時に付けられたようである。明治7年(1874)に山頂から現在地に移された。入母屋本殿は、石川県下で数少ない遺構の1つである。拝殿は、元禄14年(1701)に建てられ、もと神輿堂であったが、明治7年(1874)に本殿を移築した際、拝殿として転用したもので、梁行7間、桁行4間の大きな建造物。入母屋造り、平入り、銅板葺、装飾的なものをほとんどもたない。拝殿の前には、講堂跡の大きな礎石が並び、本殿の背後には五重塔跡や籠り堂跡、開山堂跡が残り、天正の焼失以前の石動山の姿がしのばれる。

拝殿(旧神輿堂)

旧観坊(県指定)

藩政末期まで残っていた石動山天平寺の坊舎58坊のうち、現存する唯一の建物である。入母屋造り、平入り、茅葺で、側回り柱上の絵様舟肘木や内部の部屋の構えなどに寺坊としての格式が見られる。柱筋を揃えた平面形式で、土間回りと座敷回りの2つに大きく分けられ、座敷回りは4間取りで、表側に奥座敷・前座敷、裏側にナンド・チャノマがあり、座敷の側面と背面に下屋を巡らす。土間回りは、入口を入ると座敷の前にクチノマ、その奥にオエ(ダイドコロ)があって、これとミンジャは土間にはり出ている。便所は表に突き出して付けられている。明治初年神仏分離によって坊舎でなくなり、近年までは農家の住居となっていたが、過疎化の波をうけ無住となった。昭和51年(1976)に修理されており、石動山寺坊の唯一の遺構として貴重な建物である。

旧観坊

滝尾日輪舎(町指定)

日輪舎は滝尾村の青少年を修錬して、満州へ開拓移民として送り出すための合宿訓練所で、村が建設したものである。昭和初期、村は政府の掲げる満州開拓移民政策に沿って、「滝尾村満州分村計画」を推進し、昭和14 年には満州の三江省湯原県に鹿島郡鹿西郷開拓団として27名が入植した。さらに村は、「満蒙開拓青少年義勇軍鹿西本部」に指定されるなど開拓移民を推進する動きが、この日輪舎を建設する動機となった。
この日輪舎は昭和15 年(1940)7 月に滝尾村青年学校生徒らの手によって完成した。建物の平面形は、直径11.1m の円形、屋根が円錐形でトタン葺 ・尖塔付、内部は唐傘を広げたような構造で心柱と38本の外柱からなり、外壁は南京下見板張りの大壁、高さ約6m、木造1 建である。当初、内部は土間で板壁に沿って一間幅の板張りの床がぐるりとまわるように作られ、床板の上には、机が並べられ合宿時には食事や勉強、就寝などが行われていた。戦時中は、全国各地に建てられた日輪舎であったが、現在は滝尾日輪舎も含め全国に4棟を残すのみとなった。

昭和15年ごろの訓練の様子

日輪舎

内観

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